JPALについて
JPALとは

Dissemination of culture of cut-in illustration and Creative of new possibilities.
JPALは
出版美術における挿絵文化の伝承とイラストレーションの新たな可能性を創造します。


 日本出版美術家連盟(Japan Publication Artist League、略称JPAL)は、挿絵、装画、漫画図説を中心に装丁、デザインなどさまざまな出版美術の研究・啓発・振興・発展を目的とする、わが国では最も古く設立された職能団体です。挿絵画家・装画家(イラストレーター)など創作者の社会的役割の発展と地位の向上、および権利問題の改善に取り組んでいます。
 日本出版美術家連盟は、著作者(プロの挿絵画家やイラストレーター)の権利を守るため、他の著作権を擁護する団体と共に、美著連(日本美術著作権連合)を立ち上げ、画家の著作権を守る運動をしてきました。今ではあたりまえになっている原画返却や印税も、物故の先生方の活動の成果です。今後も弱い立場の著作者の権利を守るとともに、他の団体とともに美著連の活動に協力し(複製権センター)、文化庁に働きかけを行っていきます。

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沿革

日本出版美術家連盟の発足は、1948年に、「Aの会」や「十五日会」に所属する若手挿絵画家たちが集まり、岩田専太郎に挿絵画家の団体創設を訴えたことに始まります。

昭和23年(1948年)4月
「戦前には、日本挿絵画家協会というのがあったが、今は無くなってしまった。何とかしなければいけないね。」という岩田の言葉をひきだし、1948年4月、上野桜亭にて、戦前よりの挿絵画家たちも集まり、団体名を「出版美術家連盟」(現・日本出版美術家連盟)と命名し発足しました。初代理事長は岩田専太郎。発起人メンバーは岩田専太郎、鴨下晁湖、宮尾しげを、田河水泡、田中比左良、小野佐世男、冨田千秋、川原久仁於、田代光、嶺田弘、清水三重三、細木原青起、寺本忠雄、須藤しげる、梁川剛の15名。

昭和25年(1950年)  
第1回総会が上野韻松亭で行われ、本格的な活動が始まります。

昭和26年(1951年)  第1回「挿絵祭」と銘打った展覧会が上野松坂屋デパートで盛大に開催されました。

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寄稿

「出版美術の事」  濱野 彰親
 昭和22、3年頃は、まれにみる出版の黄金時代であった。戦争中は、軍国主義的な出版物以外は刊行できなかった。それが、戦後の自由主義の時代になって新興の出版社の雑誌が一斉に出てきたが、紙が無いため、仙花紙という粗悪な紙で、表はツルツルで裏はガサガサという紙だ。これに印刷するのだから、挿絵がウラに載ったら目もあてられない。だから凸版でしか絵は描けない。ハイライト製版にするとたいへんだ。絵の部分は真っ黒になる。それで雑誌は64頁と決まっていて、実に薄っぺらな雑誌だった。

 当時というか、戦前からの挿絵界の大御所であった。岩田専太郎先生のところへ若い挿絵画家たちが集まったものだ。その面々は後に、Aの会といったグループで、佐藤泰治、御正伸、都竹伸政、野口昂明、という連中と、もう一つのグループは、十五日会で、栗林正幸、加藤敏郎、下高原健二、伊勢田邦彦、岡本爽太、そのほか4、5人居たような気がする。私は両方の会に所属していた。

 この十五日会というのが、母体になって挿美会という会ができたのだが、それはともかくとして、この二つのグループのメンバーが7、8人で岩田邸に偶然集まったことがある。そのときに、誰だったか覚えていないが、「作家のほうには、日本文芸家協会というのがあり、美術のほうには日本美術家連盟というのがあるけれど、挿絵画家には、そういう団体がない。」と言いだした。

 そして更に、「これは岩田先生が音頭をとって、挿絵の団体を造ってください。」と言った。皆それに賛同して、先生に迫った。その話を「ウン、ウン」と頷いていた岩田先生が、「戦前には、挿絵画家協会というのがあったが、今は無くなってしまった。何とかしなければいけないね。」それで、その日は終ったのだが、昭和23年の四月、上野の桜亭に、挿絵画家が集まった。メンバーは、岩田専太郎、鴨下晁湖、宮尾しげを、田河水泡、田中比左良、小野佐世男、富田千秋、川原久仁於、田代光、嶺田弘、清水三重三、細木原青起、寺本忠雄、須藤しげる、梁川剛一、等、戦前に大活躍をしていた方々で、私たち若手は、メンバーに入っていなかった。

 昭和25年6月、遂に出版美術家連盟としての総会が、上野韻松亭にて行われた。この総会にはわれわれ若手も招待された。その人数は、よく分らないが、多分百人近くは居たと思う。大広間の和室にぎっしりと居て、私などは隅のほうで小さくなっていた。それから昭和26年7月、第1回の「さしえ祭」と銘打って、展覧会が上野松坂屋で盛大に開催され、7階のホールで文字通りお祭り気分で、主催者の挿絵画家たちが、皆しるし半天を着て騒いでいた。今村恒美さんは里神楽で踊り出し、またほかの会員連中は席画を描いていた。このときの展覧会で、一番眼についたのは、中尾進さんの油絵で、たしか50号ぐらいの大きさで、時代もので決闘場面を描いていたのが、印象が強かった。この中尾さんは新制作の会員でもある。さすがに、テクニックが素晴らしかった。

 昭和30年8月、第2回展を新宿の伊勢丹で展覧会を催した。この時のことは、あまり覚えていない。 第3回31年と、第4回32年七月も、上野松坂屋で開催した。 第5回からは「出版美術祭」と改称し、そして33年7月新宿伊勢丹で、第6回は同年8月新潟市小林デパート、第7回池袋三越を最後に一応の終止符をうった。

 私は30年ぐらいから、挿美会という会ができて、「さしえ」とい雑誌を出版したりしたものだから、どうも出版美術のほうが疎かになってしまって、誠に申し訳ない。 でも、出版美術は、33年、40年、41年を椿山荘で筆供養が行われ、これには2回ぐらい行っている。田代光さん、西原比呂志さんなんかと行動を共にした。

 連盟の会員展は、その後も新宿のギャラリー・アペアでもやり、この時は私も参加している。 それから京橋の東京近代美術倶楽部、ロイヤルサロン・ギンザとかいろいろ会場を変えては毎年展覧会をやって、今日に到っている。

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