田河水泡先生との思い出〜都築進

コラム

田河水泡先生との思い出〜都築進

  • いつの間にか弟子になっていた

私は子供の頃から「大人になったら漫画家になるんだ」という夢を持っていました。その夢が叶い、戦後、名古屋で中日新聞に四コマの連載漫画を描いていました。その中日新聞が紙面強化のため、小説は吉屋信子、将棋は升田幸三、漫画は田河水泡を掲載しようということになり、「こんな新聞です」ということで新聞社が一か月間、毎日、先生に送っていました。田河先生は、私の描いた漫画を毎日見ておられたというわけです。

田河先生の連載が始まる前に名古屋へ打合せに来られ、私はその時、先生に初めてお目にかかりました。先生は「住むところを用意してあるから東京へ出てきなさい。君は今日から弟子だ」と宣言されました。驚いた私は、早速、妻と一人の子供を連れて上京、目黒に住むことになりました。

上京した私は先生に連れられての出版社めぐり。
「これ、弟子です。うまいから使いなさい」の一言ですぐ執筆が成立。そして描いた作品を雑誌で見た他社からも注文が来るようになりました。連載も何本か決まり、売込みには全く苦労しませんでした。

私の上京に刺激されて東京に出てきた友人達は売込みに大変苦労したと聞いています。先生の一言のすごさは全く驚きで私は本当にラッキーでした。

 

  • 決まった飲み屋に行かない訳

先生宅の近くに引っ越して飲みに誘われることが多くなりました。先生は行きつけの飲み屋ってのはなく、初めての店ばかりでした。店の一番奥に陣取り飲み始めるのです。弟子が店のおやじに小声で「あそこにおられるのは『のらくろ』の田河水泡先生だ」と教えるとおやじは「へえーよく来ていただきました」と驚きながら挨拶。「あゝ」とこれは決まったパターンで先生はご満悦。決まった店へ行かないのはこんな訳でした。

奥様(高見沢潤子さん)は「田河はいつもどんな所で飲んでいるのですか? 一度連れて行ってくださいよ」なんてことを言っておられました。外での先生の行動が気になるんですね。
「大丈夫ですよ。変な所へは行ってませんから」

 

  • 3人で飲み明かし

先生の奥様の戯曲の先生が真船豊氏。ある日、田河先生はこの真船氏と私の家へ夜中の2時頃来訪。
「こんな時間にはどこの飲み屋ももうやっていないので弟子のところへ行けばまだ起きている。弟子のところへ行こう」という訳で来訪。三人で朝まで飲み明かし、昔の歌を次々に唄いっぱなし。私の知らない明治、大正の歌「とらとーらとーらとら、虎をふんまえ和藤内、内藤さんは下り藤」なんてのを何回も唄われたから私もこれだけは覚えてしまいました。

それから誰でも知っている戦友という長い軍歌「ここはお国を何百里~」あまり元気の出る軍歌ではないんですが、当時の子供達は皆よく唄っていた有名な歌でした。この歌を「ここはお国をくたびれた。離れて遠きくたびれた。赤い夕陽にくたびれた。友は野末のくたびれた。敵を散々くたびれた」この歌は延々と続く長い歌であーくたびれた。

歌ばかりでなく落語も始まります。
「(略)手前取り出したるは四六の蟇。この油は刀の切れ味を止める、いいかちょっと切ってみよう。このように…切れた。切れても心配ない、この薬を一つけ付ければたちどころに、あれっ…止まらないナ。止まらなければもう一つけ付ける。それでも止まらない時はもう一度付ける。何? まだ止まらない? そーゆう時は全部擦り付ければ必ず…止まらない? お立合いの中でだれか血止めの薬を持っておる方はおられんか?」てな具合です。

 

  • 落語通の先生

田河先生は若い頃「MAVO」という団体に所属して抽象画を描いておられ、その頃、高沢路亭という名で落語も毎月4本程度書いておられたそうです。『猫と金魚』という作品は柳家権太楼師匠が「私にやらせてください」ということで寄席でやっていたようです。

これほど落語通の先生でも関西弁早口の落語は苦手だろうと予想していましたが、予想通り、江戸っ子(?)の先生にはやっぱり無理ということでした。

私は名古屋出身だから関西弁は子供の頃から聞き慣れていたから『金明竹』という落語もすらすら出来ます。この落語は、与太郎が店番をしている道具屋に早口の関西弁をしゃべる男が来ます。面白いと男は何回もしゃべらされてこの店から去るが、店の者は結局、チンプンカンプンという落語です。

先生はこの落語になると解説者になるんです。「金明竹というのは中国伝来の竹でこれを輪切りにしたのが『ずん胴切りの花いけ』だ。風羅坊『正筆』の掛け軸ってのはあれは風来坊という意味で風来坊の正筆というのは…おかしい。つあり(つまりの江戸弁)、いいかげんなものだ、という意味だ」といった具合です。

 

  • TVの仕事で絵を動かす仕掛けを作る

先生の奥様がNHKで幼児番組の台本を頼まれて書かれることになりました。その中の絵話の絵は「君がやりなさい」と先生に言われ、私もTVの仕事をすることになりました。TVでは静止した絵はだめで私は絵を動かして見せる仕掛けを工夫して制作しました。

幼児番組だけでなく、理科や語学の番組からもわかりやすくて面白いということでいろいろな番組を手掛けるようになりました。化学なんて全く苦手なものも担当するようになり、嫌いだなんて言っていられません。通信高校講座の生物番組も30年以上やってきましたので高校の先生もできる?かもしれません(これは冗談ですが)。

TVの仕事はディレクター、大道具、小道具、照明、音声、カメラ等様々な人達が時間の制約の中で制作する仕事なので、出版の仕事とは全く違い一人で漫画を描くということは出来なくなり、先生のお宅訪問もほとんど出来なくなりました。

 

  • どうだ、着いただろう!!

先生は50歳過ぎてから教習所に通い免許を取られました。免許を取ってからスバルの中古車に乗り、ハンドルを握り、奥様と私を乗せて新宿まで運転されました。
この時の言葉が傑作で「どうだ、着いただろう!!」

「はい、恐れ入りやした」

 

 


tuzuki
※都築先生は、2014年(平成26年)12月29日にご逝去されました。 ご生前のご功績を偲び、ご冥福をお祈り申しあげます。

●都築進 つづきしん

1921年 名古屋市に生まれる。
1947年~ 中京新聞に四コマの連載漫画執筆。その作品が田河水泡に認められ弟子となり上京。 講談社、小学館、学研、少年画報社等の月刊児童雑誌15誌以上。毎日小学生新聞に連載漫画を執筆。 中部日本新聞に連載童話の挿絵執筆。
1961~36年間 NHK教育TV美術制作。
1980年 宮沢賢治記念館、岐阜未来博のスライド原画制作。
1990年 ネオシルエット開発(実用新案)国際見本市に出品。以後毎年東京、静岡、愛知、群馬、千葉等各地で個展開催。

河童をモチーフにしたイラストレーターとしてもよく知られ、90歳を迎えてもなお創作意欲は衰えず、前向きに歩み続けた作家でした。 2014年(平成26年)12月29日他界(享年93歳)
本名:都築敏三

10004-03 都築 進「夕焼け」10,000 円


●田河水泡 たがわ すいほう

作家 田河 水泡は、日本の漫画家、落語作家。本名、高見澤 仲太郎。 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。

ウィキペディア より
生年月日: 1899年2月10日 生まれ: 東京都 墨田区 死没: 1989年12月12日 水泡の弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。 都築進先生はツヅキ敏で弟子です。

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構成/浅原孝子

 

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